13歳の子どもをボコり、ダークサイトに落ちた私の拳その①
私は今酔っている。美味しくもないお酒を無理やり胃に流し込んでいる。
そうでもないとやってられないからだ。
未だに私の拳は非常に嫌な感触が残っている。
自分の拳を何回も洗っても落ちないどころが、くっきりとしてくる。
これを何回も経験し、理解はしているが慣れない。慣れる方がおかしい。
そう、私は13歳の中学生をボコったのだ。今日の空手の稽古で。
今6杯目のビール缶を飲み干し、酔いを無理やり回している。
アルコールによって徐々に正常な判断が鈍くなりつつあるが、まぶたを閉じるとあの顔がはっきりと写る。
私はこの子をボコったのだ。この事実は一生消えないだろう。
空手はガチやばい格闘技。
これほど特殊な格闘技もなかなかない。少なくとも私の知る限り。
グローブを使用しない、いわば素手で殴り、蹴り、ひたすら人体を壊すことを考え、考え抜いて発達した格闘技。
ボクシングやレスリングといったスポーツ精神からかけ離れ、いわば「殴り合い」に近いスタイル。「殺し合い」といった表現もしっくりくる程。
私自身、目潰しや金玉蹴りなど、あらゆる格闘技でも邪道とされている技を平然と学んでいる位だ。
かつ、空手ほど礼節に厳しい格闘技もない。
当然である。暴力をより強くする技術を学んでいるのだから、その暴力をいかにコントロールするか、自分の自制心も鍛えなければならないからだ。
私も3✕歳になり、一応礼節はわきまえているつもりだが、それでも自分の過失から無礼を働けば、容赦なくお叱りを頂くほどである。
もちろん空手を使っての暴力沙汰は論外。一発で退会である。
空手は子どもの情緒教育として人気がある。
意外かもしれないが、小学生などのちびっ子に空手は人気である。
どちらかというと、体を動かすことの面白さを教え、また礼節を学ぶ稽古という意味でも、子どもたちにとっては有意義な情緒教育になる。
子どもの段階で、暴力の怖さを身を持って知る事ができるのは大きい。
暴力を知れば、「ボクはああしたくない」と、自然と人間に優しく出来る可能性を秘めているからだ。
また空手の先生という、人生の大先輩によって人間関係を学べる貴重な機会でもある。親は基本的に、可愛い我が子を厳しくしつけしづらい。親が年老いれば尚更だろう。
それを、空手の先生は容赦なくしつけるのである。平気で子どもの顔をはたくのである。
もちろ暴力的な行為ではなく、「こういうことはダメです!」と大人が子どもにげんこつをお見舞いするような感覚である。
実際、私の通う道場の子どもたちは全員素直で性根がまっすぐ。
とても元気いっぱいである。空手が大好きっ子ばかりである。
それはM先生のご人格の賜物というか、つらい稽古より楽しい稽古として、子どもたちにプラスになるよう、上手に教えている。
しかし中学生以上となれば、話は別。
中学生頃になってくると、空手の特質上、「何が何でも勝つ!」という精神の元、楽しい稽古からつらい稽古へと切り替わる。
大半の子どもはこの段階でリタイアする。
その気持はよく分かる。私自身、つらい稽古に何回も心が折れそうになった。実際一ヶ月もサボった時もあった。
しかしそのつらい稽古に耐え抜き、稽古を積み重ね、踏ん張った子どもたちは、初めて空手バカへの道へ歩むのである。
やる太という中学生
私の道場生に、「やる太」という子がいる。彼は13歳と、中学生デビューしたてのほやほや、肌がピチピチっ子である。
体もまだまだ小さく、身長も160cm程、体も細い。
当然、運動も速くなく、手足を必死に動かす様子を見ると、思わずほっこりする。
しばしばきつい稽古で、何回か彼は尻もちをつく。
でもすぐに立ち上がる。
負けずに食らいつく。そんな健気な姿が、かわいい!
彼には子ども特有の初々しさも残っており、それがまたかわいい。
そんな彼と一緒に稽古で汗を流す。これ程珍しい環境もなかなかないだろう。
今ならちびっ子のかわいさが分かる。そっち方面に何回か目覚めかけた。
そんな周囲から可愛がられ、愛すべき彼を、大人の私は本気でボコった。
ああ、もう酔いが回りきってる。明日は確実に二日酔いだ。クソッタレ。
ああ、さっさと寝ちまおう。全てを忘れて。
あの彼の絶望しきった表情をも。
続く。